みなさんこんにちは、オケラです。洗い屋という工務店さん向けの掃除屋をしています。僕とブルーハーツの出会いは中学生の頃になります。当時の僕は親友のMOBU君が貸してくれたTMネットワークの「ゲットワイルド」を安物のラジカセで繰り返し聞いておりました。「げちわいえんたーふ!かっこええなあ!」この曲はエロとギャグのバランスが程よいシティーハンターというスタイリッシュな殺し屋のアニメのエンディングにも使われていて、そのアニメの世界観と相まって、中学生の男子達のあこがれの名曲なのでした。
そんな僕に高校生の姉は一本のテープを貸してくれて、このように言いました。「オケラ、最近すごいロックバンドがメジャーデビューしたって評判やねん、ブルーハーツって言うんやけど。いっかい聞いてみ」姉によるとブルーハーツのボーカルはライブ中におちんちんを放り出したりいじりだしたりするとても危ない兄ちゃんらしく、また、姉が他のバンド目当てで行った野音では、ブルーハーツのファンとおぼしきいかにもさえなさそうな内気で陰気臭い兄ちゃんたちも、ボーカルと同じくぴょんぴょん跳ね回っていて、他のお客さんと比べてもあきらかに普通ではなかったそうな。しかも女性ファンはほぼいてなさそうな雰囲気。でも、女のファンが少ないのはこれからもっと人気が出るポテンシャルがたっぷりということを意味するそうです。若い女性はフットワークが軽くトレンドにも敏感なので気に入ったらすぐに動きます。でも男性はそうではありません。なかなか動き出さない男子でしかも学校などでも全く目立たなそうなお兄ちゃんたちがはち切れてとてもうれしそうにライブを楽しんでいた様子に、姉はこのバンドは絶対にもっとブレイクするなと感じ、レンタルショップでダビングしたものをさえない中学生の弟である僕にさっそく聞かせてくれたのでした。後年、なんであの時僕にブルーハーツを紹介してくれたのか聞いてみました。姉は当時のTMネットワークは完成品といいますかケチのつけようのない完璧なバンドだったそうで、TMネットワークにはまりつつある僕に、誰もが認める完全無欠のTMネットワークもいいけれど、何をしでかすかわからないブルーハーツの魅力もオケラに合ってていいんじゃないのかなと思ったそうなのです。プロ野球で例えれば見ていて安心の巨人やソフトバンクを応援するのと、何をやらかすかわからない阪神やディエヌエイを応援したくなる気持ちの違いみたいなものだそうです、ちなみに僕はプロ野球はさっぱりわかりません。そしてラジカセの重い再生ボタンをごちっと押し込み一曲目が始まります。ずんどこどこどこずんどこオーッ!音楽の知識のない中学2年生の僕にでも歌も演奏も巧みだと感じることはありませんでしたが、目が覚めるような不思議な思いがしました。なぜなら全ての曲が僕を励まし応援してくれているように思えてならなかったのです。
中学生の頃の僕は自分に自信がなく、それはいまでもなんですが、どちらかと言えばからかわれたりおちょくられたりするほうでした。成績も悪く身体能力も平均以下なので、どう表現していいのかわかりませんが思春期特有のものなのか、劣等感や自信の無さで自身の将来に希望を持ったり明るい気持ちになったりすることはありませんでした。ですが、若かりし僕は幼いため自分で自身の何に対して不安やいらだちを持ち、周囲の誰に対してどのような不満をどうぶつけたいのか、具体的な言葉でそれらを認識することができずにいて、そのことが漠然とした不安をより大きく重たいものにしてしまっていたのでした。そしてそれをいっぺんに振り払ってくれたのがブルーハーツだったのです。自分でもわからないぐらいの心の一番奥深いところにあるもやもやした劣等感のかたまりをヒロトがむぎゅーと掴んでひっぱりだしぶんぶん振り回してぽいと捨てて頑張れー!と言ってくれたのでした。幼い心に重くのしかかっていたものが一瞬で取り払われ、すがすがしい、いい気持ちになりました。今思えば、生まれた時から延々と続いてきた子供時代が終わり、軸足が大人側に変化した瞬間なのでした。僕の青春時代の扉は間違いなくブルーハーツに開けてもらったのでした。
というわけで、ブルーハーツを愛してやまない僕が、頼まれてもいないのに勝手に全アルバム曲の感想をだらだらと書きつづっていこうと思います。本当は詩の内容を深読みするのが大好きな僕ではありますが、何かの雑誌のインタビューだったのかそれとも愛読書「ドブネズミの詩」に書かれていたのかは忘れてしまいましたが、ヒロトが詩の内容や意味や生まれたきっかけやエピソードなどを詮索されるのは嫌いだ、そんなもん思いついたのを詩に書いただけじゃと言っていましたので、ファンとしてヒーローの嫌うことはできません。まあ、ちょっとはすると思いますが、みなさんすいませんですがさえないおっさんのぐだぐだ話におつきあいくださいませ。ところでブルーハーツというバンド名ですが「ドブネズミの詩」だったのか何かの雑誌のインタビューだったのか忘れましたが、スケベな心という意味じゃーと言っていたように思います。当時の僕は「ブルー」に下品という意味があることを知っていて、なるへそと思ったものでした。アメリカの労働者を区別する言葉にホワイトカラー(ワイシャツにネクタイのピシッとしたビジネスマン)とブルーカラー(青い色の作業着の荒くれ肉体労働者)というものがあることをなぜだか知っていたのと、デビッドボウイの「ブルージーン(Bが大文字です。女の子の名前)」という超かっこいい曲の「ブルー」には卑猥やお転婆といった意味が含まれていると、雑誌だったか貸レコード屋さんのライナーノーツか何かに書かれていたことを、覚えていたからなのでした。
未来は僕らの手の中
ずんどこどこどこずんどこどこうおー!から始まる疾走感あふれるこの曲、安物のスチールラックの上にちょこんと置かれたこれまた安物のダブルデッキのラジカセから流れてきた時の衝撃は、今でもはっきりと覚えています。そりゃまあ初めて自我が芽生え、見つめたくないさえない自分を客観的に見つめる勇気を手に入れたわけですから、忘れられない瞬間に決まってますよね。後年、ハイロウズの十四才という曲のなかでヒロトは少しだけいばったレコードプレイヤーにこのように語らせます
いつでもどんな時でも スイッチを入れろよ
そん時は 必ず お前 14才にしてやるぜ!
僕にとってはあのちゃちい横に細長い黒のWデッキのラジカセが、ヒロトのレコードプレーヤーと同じ存在になります。いいですよね、14才。
月が空にはりついてら 銀紙の星が揺れてら
誰もがポケットの中に 孤独を隠し持っている
あまりにも突然に 昨日は砕けてゆく
それならばいまここで 僕等何かをはじめよう
マーシー作詞・作曲のわずか2分25秒の短い曲なのに、委縮しつつある僕の心を一変させてくれました。詩人てすごいですよね、たったの4行の言葉で人の心を変えてしまいます。たった4行で見事にマーシーの心の中に引き込まれてしまいます。何でもそうなのでしょうが心の不安や恐怖感の原因や理由が見えてきて、自分の現状といいますか現在地を把握できれば、次の一歩を踏み出すことができます。他人と比べて明らかにへぼい自分を見つめ認めるのは怖いものではありますが、客観的に見ることができるようになれば胸の内のもやもやした不安感はきれいに払われ、次の手を打つことができます。僕はすぐさま何かを始めたわけではありませんでしたが、もう何かを始められる自分になれたように思ったのです。
誰かのルールはいらない 誰かのモラルはいらない
学校も塾もいらない 真実を握りしめたい
僕等は泣くために うまれたわけじゃないよ
僕等は負けるために うまれてきたわけじゃないよ
僕たちは間違いなく誰かのルールや誰かのモラルという世間の中で生きていて、学校も塾も必要なものなのは変えようのない現実ではありますが、僕はそれらのシステムからはみ出し始めた為に危ないところで劣等感のかたまりにされてしまうところでした。僕等は泣くためにうまれたわけじゃない、僕等は負けるためにうまれてきたわけじゃない、そうはっきり言ってくれないと、単細胞の僕は泣くのが当たり前で負けているのは普通だと思い込んでしまいます。自尊心がなければ生きていてもつまらないですもんね。未来は僕等の手の中!なんと素晴らしい言葉なのでしょうか。見た目では反社会的で攻撃的なパンクロックですが、これほどのやさしい歌が他のどこにあるのでしょうか?ところで枠からはみ出てしまったものを排除しようとする社会に対しての強い怒りと、はみ出してしまった者に対するあたたかな包容力に、「未来は僕等の手の中」と同じ心を感じてやまない歌で、アンジーの「素晴らしい僕ら」という名曲があります。僕の高校受験前の不安定な心を支えてくれた一曲です。オフィシャル動画ではないので気は進まないのですが、僕と同世代の方には聞いていただきたいものです。
終わらない歌
梶くんのかっこいい印象的なドラムから始まるこの曲はベスト盤にも収録されていたマーシーの曲で、これまた涙を流して何度も聞いた曲です。いいですねえ、終わらない歌。終わらないんですよ!当時の僕は「ブルーハーツ集団」というファンクラブに入っておりました。その数か月に一回ほど送られてくる手書きで手作り感たっぷりの安っぽい紙に印刷された会報に、ファンらしき方の4コママンガが掲載されていました。終わらない歌なので終われない歌なもんですから、最後は前のめりに倒れ込んで死んでしまうという内容でしたが、少し笑いました。僕はこの歌はブルーハーツがずっと励ましてやるぜ!とむぎゅーと抱きしめてくれるように感じていました。思春期真っ只中の不安定で傷付きやすいデリケートな心に惜しみなく励ましを贈ってくれ、ダメな奴でもそんなことないんだぜ!とそのままの自分を受け入れてくれるブルーハーツの楽曲にどれほど救われたことでしょうか。
真実(ほんと)の瞬間はいつも 死ぬほどこわいものだから
逃げ出したくなったことは 今まで何度でもあった
人生いくら逃げ回ったところで、いつかはほんとの瞬間と向き合わなくてはいけません。まあ長い人生で向き合わないまま保留中にし続けていることもいっぱいありますが。しかし、自信を失いすり減った少年の心には今の逃げ出したくなる気持ちを分かってもらえることの安心感は次の挑戦心を育みます。今でなくてもいいのです、あしたには笑えるように!ちなみに、終わらない歌を歌おう...あつかいされた日々のところは、ライブではへんたいとかきちがいとか歌っていたように思います。
NO NO NO
ブルーハーツは2~3分ぐらいの楽曲が多いですよね、NO NO NOも2分26秒でとても短い。今回はヒロトの曲になりますが、曲は長かろうが短かろうが歌の質には何の関係もなく、そして短い方が聴きやすくていいのは確かです。しかも、中学生当時の僕はブルーハーツのテープを聴きだすと、だいたい片面が終わるまでは止められない程の中毒者といいますか完璧主義だったので、中途半端にラジカセから離れるのにはいささかの勇気が必要なのでした。でも用事などで最悪途中で止めなくてはならない時もあります。そんな時、ブルーハーツは大抵一曲一曲が短いものですから、曲の演奏途中で止めることなく、一曲が終わる切りのいい所でストレスなくすみやかにぶちぃと止められることができるので安心です。うつ病の人が快速は乗れる気がしないけれど症状が治まっている時なら、各停でドア付近ならOKというのと近いかもしれませんね…あんまり関係ないか?
どこかで誰かが泣いて なみだがたくさん出た
政治家にも変えられない 僕たちの世代
戦闘機が買えるぐらいの はした金ならいらない
NO NO NO 笑い飛ばせばいいさ
泣きたくなるような僕の心も戦闘機が買えるぐらいのお金すらはした金に過ぎないほど尊く、目の前のあなたの方が原子爆弾にかなわないという、ヒロトのスケールの大さに心が揺り動かされるいい曲ですね。NO NO NO 笑い飛ばせばいいさ。開き直ってしまえれば本当に気が楽です。NO NO NO 笑い飛ばせばいいさ、何度も自分に言い聞かせた魔法の言葉です。
街
この曲からどれほどの希望や勇気をもらったことでしょうか、ヒロトの曲です。
いつか会えるよ 同じ涙を こらえきれぬ友達と きっと会えるよ
いつか会えるよ 同じ気持ちで 爆発しそうな仲間と きっと会えるよ
いつか見るだろう 同じこぶしを 握りしめてたつ人を きっとみるだろう
その時僕たちは何ができるだろう 右手と左手で何ができるだろう
命のある限り忘れてはいけない 今しか僕にしかできないことがある
この曲を自分のものにした時、まだ当分親に養ってもらわないと何もできない中学生なのに、偉そうですが僕は精神的に少しばかり自立できたと感じました。ちっぽけな両手ではありますが、今しか僕にしかできないことがあるのです!まあその後の人生何度もへこたれるのですが、ひとまず何があってもどれだけ行き詰っても時間がかかっても再起動できる原点をこの曲でつかんだのでした。結局、同じ涙や同じ気持ちや同じこぶしを握りしめた人に出会うことはかないませんでしたが、いい友達や先輩には本当に恵まれたと思っています。今はおっさんらしい妥協・打算・惰性の3Dスパイラルの繰り返しの中で生きてはいますが、常に「今しか僕にしかできないことがある」との言葉だけは心の真ん中に置きつづけてきました、これからも変わることはないでしょう。
少年の詩
このブログに来てくださった方で知らない人はいないでしょう、ヒロトの曲ですね。特にブルーハーツ前期の代表曲のひとつではないでしょうか。中学3年生の修学旅行中のバスの中で、カラオケをすることになった時、不良っぽいかっこいい人がこの歌を歌っていました。きまってるなあ!かっこいいなあ!やはり歌には生き様がでるんだなあとうらやましく思ったものです。考えてもみてください、誰がどう見ても不良の人がこの歌を歌うのですから。真面目に見えていても心の中は屈折していて、本当は不良になりたいけれど、腕っぷしも度胸もない僕にとっては、彼はあまりに遠い存在でした。翌年、高校1年生の秋ぐらいだったか京都会館第一ホールで行われたライブに一緒に同じクラスのこれまた不良っぽい人達と行くことになったのですが、とびきり心根の気持ちのいいナイスガイ達でした。帰りの我が家の最寄り駅でお酒の自販機に手を突っ込んでビールを引っ張り出して「オケラ君も飲みなよ」にこにこ500mlの缶ビール渡してくれたやさしい彼らは今はいったいどこで何をしているのやら。少年とナイフは相性がとてもいいですね、建前やご都合的なあいまいさを決して許さない少年の鋭い感性は、そのままナイフと形容してふさわしいでしょう。すっかり忘れてしまいましたが、遠い昔に僕にも皆さんにもそんな時代があったはずです。この曲について語り出したら文字数が増えすぎてしまいますし、この曲の素晴らしさは皆さんご存知でしょうから、ポイントをひとつに絞ってお話させていただきます。
先生たちは僕を不安にするけど それほど大切な言葉じゃなかった
テープで聞いたら「言葉はなかった」に聞こえるのですが、歌詞カードには「言葉じゃなかった」とあります。3rdアルバムに収録されている「トレイントレイン」でも同じようなことがあり、前出のファンクラブ「ブルーハーツ集団」の会報に書かれていたトレイントレインの詩でも「トレイントレイン走ってゆけ」と書かれていたのにもかかわらず、実際には「走ってゆく」と歌われていました。まあ、どっちでもいいのでしょう。僕は「言葉じゃなかった」派です。先生たちに不安にされた忘れられない言葉に「お前らそんなんじゃ社会で通用せんぞ!まともに社会で生きていかれへんぞ」というものでした。僕はその言葉におびえました。世は昭和62~3年、僕が中学3年生の冬に時代は平成へと移り変わりました。その時代の同調圧力は今とは比べ物にならず、社会からはみ出てしまうというという言葉は即、生きていけないという意味であり、世間知らずの僕を脅すのには充分すぎました。また、当時の義務教育は画一的な社会人を量産することに主眼を置いていたようですから、学校の先生方は何でもかんでも型にはめ込もうとする社会的な要求を代行していたのかもしれません。そんなまがまがしい空気など吹き飛ばす根性のある不良の方などは、それは大人たちの都合のいい世界のことでしかないなと簡単に見抜いていたはずです。いつでもどこでも何をやってでも生きていく知恵とバイタリティーがあれば、先生は馬鹿なことを言っているなあと笑って流してしまえるぐらいです。例えば僕は今、洗い屋という工務店さん向けの掃除屋をして、建築現場で仕事をしています。はっきり言って中学校の先生が言っていた社会で通用しない人だらけです、笑ってしまいます。でも間違いなく通用していて、必要とされている人ばかりです。これは先生方の言っていた社会というのは一部上場企業のビジネスマンや公務員さんなどの「ちゃんとした」社会人の世界だったからでした。こちらの世界は「ちゃんとした大人」であることが前提条件なわけですから、間違いなく減点法の世界でしょう。ちゃんとしていないと弾き出されてしまいます。でも、職人の世界は違います、訳の分からんめちゃくちゃなおっさん達だらけです。これがまた、ゼネコンの現場や一流住宅メーカーの現場だと職人さんもまともな人ばかりらしいのですが、一般の建築現場は違います。仕事に対する誇りや取り組む姿勢にについては別として、監督や親方の言うことをきかない、マナーも服装も言葉遣いもてんでなってない駄目な大人たちがぞろぞろいております。寝ぐせ頭でも前歯が一本かけていてもズボンがずれていても誰にでもためぐちでもOKです。ですが駄目な大人だらけの職人の世界は基本的に加点法です。まずは工期内に一定水準の仕事レベルにおさめることができれば、あとは監督さん次第で何とでもなります。監督さんが「あいつよりまっし」「こいつより使いやすい」「あいつより安い」「こいつの方が仕事が早い」の違いなどで呼んでくれるかどうかはあるとは思いますが、基本、納期を守り腕さえあれば誰に対してもぺこぺこする必要すらない自由な世界です。そしてそれは中学校の先生達の全く知らない未知の社会です。ですので僕を不安にした「社会で通用せえへんぞ!」という先生たちの言葉は、それほど大切な言葉じゃなかったのでした。
ずいぶんと長くなってきてしまいましたので、続きは後編で語らせていただきたいと思います。ではでは
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